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1. 和文タイプから日本語ワープロへ
日本でオフィス文書を作成する機械の歴史を探ると、始まりに和文タイプライターがあります。今のように文字変換して漢字を選ぶのではなく、活字を1文字ずつ拾って紙に印字するものでした。2,000種ほど並んだ文字盤の文字配列を記憶する必要があり、和文タイピストという専門職がいたほどです(余談ですが、2016年放送のNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」では、ヒロインがまさにこの和文タイピストでした)。
和文タイプライターはきれいで体裁が整った文書を作るうえで役立つ機械でしたが、普通の人が扱えるものではありませんでした。そのため、オフィス文書もきれいに和文タイプライターで作ったものばかりではなく、手書きのものも混在していました。
この状況を一歩改善し、まず和文タイプライターを置き換えることを目指して登場したのが日本語ワープロの専用機です。1978年に東芝が業界初の日本語ワープロ「JW-10」を発表し、続けてシャープ、富士通といった大手電機メーカーが製品を発売しました。その流れの中でNECは、1980年に「NWP-20」を発売し、日本語ワープロ市場に参入しました。
NEC パートナーズプラットフォーム事業部 エグゼクティブ エキスパート 星野誠氏(写真1)は「私がNECに入社したのは1982年。当時NECが販売していた日本語ワープロは『文豪NWP-20N』でした。研修を兼ねて私も実務で利用しましたが、まだ日本語ワープロは新しい製品ジャンルだと感じていました」と述懐します。
(写真1)NEC パートナーズプラットフォーム事業部 エグゼクティブ エキスパート 星野誠氏 *内容は取材当時のもの(写真:加山恵美)
星野さんは文豪NWP-20Nの姿を「机と冷蔵庫のようなものでした」(写真2)と言います。自立設置型の本体があり、その隣に大型のレーザープリンター(今のコピー機に近いもの)がセットされていました。当初、和文タイピストが使用することを想定していたため、キーボードは、和文タイプライターの文字盤と同様のものが付いていました。英文タイプライターと同様のJIS配列キーボードを備えた製品もあったので、徐々に和文タイピストではない一般人も使用できるようになりました。
(写真2)NECの日本語ワープロ「文豪NWP-20N」。オフィスで使う机のような本体の横に、巨大なレーザープリンターが付いていた(提供:NEC)
作成した文書は紙に印刷するほかに、OHP(Overhead Projector)シートに直接印刷することもありました。80年代当時、プレゼンテーションの場では透明なOHPシートに描いたものをOHPで投影することが普通だったからです。OHPで投影する文書は手書きが多かったのですが、日本語ワープロで印字したものを投影すると皆が美しさに驚嘆したほどだといいます。
当時はパソコン向けの日本語ワープロソフトがまだ存在していなかったので、日本語できれいに文書を作る機械としては、先に挙げた和文タイプライターとワープロ専用機しかありませんでした。日本語ワープロの価格は当時で200~300万円。まだまだ高価なものでした。しかし紙に直接文字を打ち込んでいく和文タイプライターに比べると、日本語ワープロは過去のデータを再利用できるところが画期的でした。この再利用性は、オフィスの生産性を向上させました。
ただし文書を再利用しようとすると、日本語ワープロの処理性能が壁になりました。文書を再利用するために編集しようとすると、大変待たされたのです。作成した文書(データ)の保存先は8インチのフロッピーディスク。この読み書きが遅かったのです。また、機械としての性能もまだまだでした。星野氏は「(NECの)パソコンならPC-8000シリーズレベル」と説明します。
まだ大きく、高価で、動作が遅いものの、オフィスの文書作成という作業を和文タイピストによる専門的な仕事から、一般人にもできる仕事に変えたところから日本語ワープロの歴史と普及は始まりました。
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2. 低価格化が進み、オフィスに欠かせない存在に
登場当初の日本語ワープロは大変高価だったため、当初は官公庁や大手企業しか使えないような高級品でした。オフィスにも浸透していきますが、従業員みんなで共用する機器という位置づけでした。
1980年代の初頭に、その流れを変える出来事が起きます。ワープロ専用機の低価格化です。富士通の「OASYS」シリーズが先行し、それをNECが「文豪」シリーズで追随しました。
(写真3)1982年発売の「文豪NWP-10N」。5年リースにすれば月額2~3万円で導入可能という安さで、中堅・中小企業にも浸透していった(提供:NEC)
NECは1982年に「文豪NWP-10N」(写真3)を100~150万円という価格で売り出します。前世代機のおよそ半分の価格です。5年リースにすれば月額2~3万円で導入可能となるので、大企業だけでなく中堅・中小企業にも普及が進みました。その当時のことを振り返って、「大塚商会さんには大量に拡販いただきました。感謝しております」とNEC パートナーズプラットフォーム事業部 エグゼクティブ エキスパート 星野誠氏(写真4)はにっこりと笑顔を見せてくれました。
(写真4)NEC パートナーズプラットフォーム事業部 エグゼクティブ エキスパート 星野誠氏 *内容は取材当時のもの(写真:加山恵美)
NECは文豪NWP-10Nで、価格を下げるだけでなく、本体サイズの縮小にも挑戦しました。前世代機は、本体がオフィスで使う机のような大きさでしたが、文豪NWP-10Nの本体は机の上に置ける「デスクトップ型」となりました。この本体にセットとなったのがドットインパクトプリンター。インクリボンを針でたたいて文字を紙へ転写するため、印刷するときの「ビビビビビ」という音が大きな特徴です。レーザープリンターに比べてかなり小さいので、本体とプリンターをオフィスの机に並べて置くことができるようになり、オフィスで働く一人ひとりの机の上にワープロ専用機を置くことも現実的になってきました。ディスプレイは黒い背景に緑の文字のグリーンディスプレイ。フロッピーディスクドライブは8インチでした。
さらに1984年に発売した「文豪5N」(写真5)は40万を切る価格で登場し、市場で躍進しました。星野氏は「トップの指示で(ライバル機種を追い抜くように)当初の予定価格を大幅に下回る価格に変更されました。あまりに安いので展示会では『プリンターは別売なのでしょう?』と言われたほどです」と笑います。
(写真5)1984年発売の「文豪5N」。プリンターまでセットで40万円を切る価格を実現し、業界に衝撃を与えた(提供:NEC)
NECがワープロ専用機の低価格化を実現できた大きな理由の一つに、ビジネスパソコン「N5200シリーズ」と文豪の部品の共通化を実現したという点が挙げられます。これで価格競争力を付けることに成功しました。さらに、N5200シリーズ譲りの高い性能も実現しました。
80年代前半、NECはワープロ専用機の低価格化を進め、オフィスへの導入を促進する一方で、野心的な製品の開発も進めていました。1982年に発売となる、音声で入力できるワープロ「VWP-100」です。当時NECは、音声認識で世界最先端の技術を有していたので、会長の肝いりで開発が進められたとのことです。音声で入力するワープロは、世界初の試みだったので、当時は大きな反響がありました。
ただし音声入力をするには単音節(1文字ずつ)で話さなくてはならないこと、話者の音声を事前に登録しておかなくてはならないこと、同じ人物が話していても時間がたつと認識率が下がることなど課題は少なくはありませんでした。魚市場などキーボードを触るのが困難で、一部の決まった単語しか使わない現場では役に立ちましたが、まだ話し言葉のペースで入力できるものではありませんでした。さらに450万ほどという価格がネックとなり、普及しないままに終わりました。
しかし技術は現代にも引き継がれています。星野氏は次のように説明します。「音声認識はパターン認識技術ですので、後の指紋認証や顔認証で役立っています。現在、マイナンバーカードを受け取るときはカメラで顔認証をしますが、あのシステムはNECが作ったものなのですよ」
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3. 「オフィスで使うもの」から「個人も使えるもの」に
1980年代中ごろになると、ワープロ専用機の小型化と低価格化がさらに進みました。その結果、オフィスで使うものだったワープロ専用機が、個人の手に届くものになりました。NEC パートナーズプラットフォーム事業部 エグゼクティブ エキスパート 星野誠氏(写真6)はワープロ専用機を購入した個人ユーザーについて「主に学校の先生、各種団体の事務局、個人事業主、趣味で文筆活動をする個人などに広がりました」と話します。
(写真6)NEC パートナーズプラットフォーム事業部 エグゼクティブ エキスパート 星野誠氏 *内容は取材当時のもの(写真:加山恵美)
この頃になると東芝やシャープの液晶ラップトップ(卓上薄型)タイプも出回るようになりました。NECは小型卓上ワープロ「文豪mini」シリーズ(写真7)を販売していました。
(写真7)1985年発売の「文豪mini5」。小型液晶ディスプレイを搭載し、充電池を内蔵しており、自由に持ち運んで使うことができた。本体価格は10万円を切り、家庭向けに好評を得た(提供:NEC)
「文豪mini」は本体を机の上に設置できる「デスクトップ型」で、熱転写プリンターと一体化したものでした。取っ手があるため、持ち運びも可能。フロッピーディスクドライブは3.5インチとなり、ディスプレイは白地の背景へと変化していきました。
こうして、ワープロ専用機は企業だけでなく個人にまで広く普及しました。しかし、星野さんの脳裏には気になる言葉が焼き付いていたと言います。NECに入社して間もない、まだ若い星野さんに、ある先輩がこんなことを言ったそうです。
「いずれユーザーは日本語ワープロから離れ、パソコンを使うようになる。先は長くない」。
NECは国内トップのパソコンメーカーだったので、先輩はそう言葉をかけたのでしょう。そして、後に説明しますが、この言葉は現実のものになります。
しかし、ワープロ専用機は決して一過性の製品ではなかったと、星野さんは考えています。「当時の市場では専用機の使い勝手が高く評価されており、まだパソコンを使いこなせない人には日本語ワープロはいいスタート地点でした」(星野氏)。
80年代、まだコンピューターは身近ではなく、ローマ字入力の方法すら知らない人も少なくありませんでした。パソコンに日本語ワープロソフトをインストールして使うなんて、初心者にしてみれば到底自力でできるものではなかったのです。その点、ワープロ専用機は電源を入れればすぐに文字入力を始められるので、簡単かつ気軽に使えたわけです。
そして、日本語ワープロが残した大きな財産の一つに、独自キーボードがあります。特に有名な富士通の「親指シフト」ならご存じの方も多いかと思います。親指シフトキーボードは文字配列が独特で、パソコンのスペースキーに当たる部分に親指シフトキーが二つ並んでいます。キーを単体で打鍵するか、左右いずれかの親指シフトキーと同時打鍵することで高い入力効率を実現できていました。
親指シフトの人気をNECは傍観しませんでした。「親指シフトに続け」と「M式キーボード」(写真8)を考案したのです。左手側に子音、右手側に母音を配置することで、通常のJIS式キーボードよりも速く入力でき、疲労を軽減できるとされていました。しかし独特の子音と母音の分解法をマスターする必要があり、この分解法に慣れるまでに長い時間がかかることが難点でした。またパソコン普及という向かい風が吹き始めると、独自キーボードは敬遠されるようになりました。
(写真8)NECの「M式キーボード」。これを搭載した初めてのワープロ専用機は1984年発売の「PWP-100」(提供:NEC)
最終的にはどのメーカーも2000年になる手前で日本語ワープロの新製品を発売しなくなりました。星野氏の先輩が予測した通り、ユーザーはパソコンを選ぶようになり日本語ワープロは姿を消したのです。しかしオフィスで(専門職ではない人が、手書きではなく)活字の文書を作成するのが常識となり、生産性向上を実現させ、その先のパソコンへの足がかりとなるなど、日本語ワープロは重要な役割を果たしたのです。
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