2017年 5月10日公開

ITここに歴史あり

国民機パソコン、その誕生から引退まで

執筆:山田祥平(フリーランスライター) 編集・文責:株式会社インプレス

Basicから、MS-DOS、そしてWindowsへの時代にまたがり、NECのPC-9800シリーズは日本人のための国民機にこだわり続けます。でも、そうはいっていられなくなる状況に陥ります。DOS/VとPC/AT互換機の登場は、98シリーズの将来に、大きな影響を与えることになるのです。

1. マイコンからパソコンへ

日本におけるパソコンの歴史の始まりは、のちに国民機とまで呼ばれることになるNEC製品の足跡といっても過言ではありません。

ロッキード事件が世の中を騒がせていた1976年、NECは一般ユーザー向けのマイコントレーニングキットとしてTK-80を発売しました(76年8月 88,500円)。マイクロコンピューターというパーツで何ができるのか、どうすれば使えるのかを世の中に知ってほしいという願いを込めた製品です。パーツを売るためのキットですからいわば販促品。価格はどうでもよかったということですが、当時の大手企業の係長クラスがハンコひとつで買える価格ということでこの価格が設定されたそうです。

このキットが爆発的にヒットしました。コンピューターがあればなんでもできるという夢を抱いた一般コンシューマーさえ巻き込みます。それでも使いこなせる能力を持つのは、せっせと技術書を読んで勉強した一部のマニア、技術者に限られました。そこで、NECは、コードネーム PCX-1で開発を進めていたPC-8000シリーズを世に問います。ここで、パラダイムを「マイコンを学習するためのキット」から「プログラムを使うためのマシン」にシフトさせようとしたのです。

時に、米国ではアップルIIやコモドールPETなどが売れていた時代です。1978年にはNECの渡辺和也氏(当時マイクロコンピューター販売部長)はアスキー創業者である西和彦氏の仲介でマイクロソフトのビル・ゲイツに会うために渡米し、PC-8000シリーズ用のプログラミング言語としてBASICの開発を依頼します。

こんな具合に、NECのパソコンはマイコンという半導体を事業としていたグループがパソコンを売り出すことから始まりました。そんな経緯もあって、大型コンピューター等で大金を稼いでいた情報処理系に販売ルートを頼れないという事情もありました。

そうしたハンディがありながらもPC-8000シリーズは1979年に発売へとこぎつけ、ベストセラーになりました。そしてパソコンが一般のコンシューマーに受け入れられるようになったのです。ゲームなどのエンターテインメントはもちろん業務用のソフトが豊富にそろったエコシステムが築き始められました。

その後、情報処理系グループは、半導体グループから主導権を奪うかたちでパソコン事業に取り組むことになります。そして生まれたのが16ビットパソコンのPC-9800シリーズです。当時のめぼしいライバルは1981年末の三菱マルチ16シリーズと沖電気のif800シリーズで、どちらも70万円以上の価格が設定されていました。

この年、米国ではあのIBMがおもちゃのようなパソコンを扱うという揶揄(やゆ)に真っ向から立ち向かうかたちでIBM PCがデビューし、世界標準への道を着実に歩み始めていました。NECも、パソコンという商品の独自性をソフト戦略に求め、惜しみなく情報を公開してサードパーティを掌握するというIBM方式でビジネスを進めようとしていました。

そして、1982年10月13日。ついに発表されたPC-9800シリーズには、298,000円という価格が設定されました。当時としては破格です。この日から国民機と呼ばれる名機の歴史が始まるのです。

(写真1)パソコン国民機第一号、PC-9801

この日発表されたのはPC-9801。のちに無印98と呼ばれることになるパソコンです。インテルの8086互換16ビットプロセッサーとしてNECオリジナルのμPD8086を搭載した製品で、日本語を処理するというビジネス用途には欠かせないさまざまな工夫がちりばめられていました。もっとも日本語の字体を収録した漢字ROMは別売りでしたが、高速なグラフィックスによるスムーズな日本語表示ができるように設計されていました。この時点で、IBM PCと比べても技術的な先進性を持ったパソコンとして知られることになるのです。でも、その先進性が、のちに日本独自の仕様となる、いわゆるガラパゴス現象を引き起こすことにつながっていくとは、このときには誰も想像していませんでした。

(写真2)NECのパソコンを国民機に成長させた、元役員の高山 由さん *内容は取材当時のもの

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2. ブックではなく「ノートパソコン」に

日本電気という巨大な組織の中で、新たな事業としてのパソコンに取り組む一人一人が一丸となって努力した足跡です。そして、そこには日本電気のみならず、同社といっしょにエコシステムを支えたサードパーティの存在がありました。

PC-9801が発売された翌1984年、IBMはPC/ATを発売します。IBM PC同様に、内部仕様の詳細が公開され、コンパックやデルといった各社がPC/AT互換機を発売し、まっしぐらに世界標準の道を歩み始めていました。

(写真3)ノートパソコン第一号の、NEC PC-9801N

この当時、パソコンがマニアのおもちゃではなく本格的なビジネスに使える事務機であるという認識は、キラーソフトの表計算ソフト「Lotus 1-2-3」の存在によるものでした。ただ、PC-98用の同ソフトがリリースされるのは1986年になってからです。日本での市場開拓は、たとえベストセラーとされた98シリーズであっても、まだまだ小さなものであったことが分かります。

高山由氏(当時販売促進部長)は、PC-9801を売るために全国を行脚します。高山氏は東京・台東区下谷の生まれ。根っからの下町っ子でした。電気に関わるものなら秋葉原で売らなければならないと思ったそうです。高山氏はPC-9801のことを「キュッパチ」と呼びます。「キューハチ」ではありません。電化製品のメッカとしての秋葉原で売れれば日本全国で売れるはず。それが高山氏の戦略でした。
「ハードウェアだけではなくソフトウェアが大事だと言うことを知ってもらいたかったんですね。今と違ってパソコンが何なのかを誰も知らない時代ですから、まずはショールームを秋葉原に作って体験してもらいました。ショップについては小さい店の方が売ってくれましたね。カメラ量販大手は相手にしてくれませんでした」(高山氏)

(写真4)「ノートパソコン」の命名者でもあるNECの元役員、高山 由さん *内容は取材当時のもの

このころからNECは技術力に裏付けされた優れた製品を開発することのみならず、それをどう売っていくのかという難問に立ち向かいます。

「予定通り売れていないと上から怒られました。年がら年中怒られていたように思います。でも、もうかっていたんですよ。売り上げも伸びていました。利益率も高かったですしね。20万円で売ってもいいものを45万円で売っていましたからね。まあ、生産ができないから高い値段をつけたんですが。工場を大きくするような時代でもなく、パソコンを売るのにそういう発想はありませんでした」(高山氏)

そんな高山氏が全国のソフトハウスをまわるうちに出会ったのがジャストシステム(徳島県)の一太郎です。同社は既にNECパソコン用にJS-WORDというワープロソフトを開発済みでしたが、高山氏が見たのはそれとは別のソフトでした。1985年に発売された「jX-WORD太郎」は、のちの「一太郎」となり、PC-9800シリーズが圧倒的なベストセラーの位置に君臨することに貢献します。

「ハードではなくて使い方が売れたんだと思いますね」高山氏は当時をそう述懐します。「キュッパチを海外で売るつもりはありませんでした。グローバルな考え方はありませんでした。とにかく日本人のためのパソコンでありたかった。でも、それがいけなかったんでしょうね。本当はグローバルでなければならなかったんです」(高山氏)

高山氏は「ノートパソコン」という呼称を作った人物としても有名です。1989年に東芝がダイナブックとしてノートパソコンJ-3100を発売したことを知り、大きなショックを受けた高山氏は、開発陣に対して激怒、彼らを東芝に連れて行き、教えを請うという暴挙に出ます。どんな真似をしてもいいからすぐに作れといったそうです。叱咤された開発陣はわずか4か月でノートパソコンの発売にこぎつけます。それが89年11月に発売された98NOTEです。圧倒的な98のソフトウェア資産を全て使える98NOTEはアッという間にダイナブックをキャッチアップします。

「東芝のアイデアには感服しました。技術もすごい。半導体技術も優れていました。だから連れて行ったんです。当時は仲間内みたいなものですからね。でも、うちのみんなも短期間でよくやってくれました。たいしたもんですよ。呼び方についてはウルトラブックとかスーパーブックとか、いろいろ考えたのですが、ブックは内容があるけど、何も中に書いてないのがノートじゃないですか。パソコンはあとから何かを書くんです。ブックじゃ負けてしまう。それで98NOTEです」(高山氏)

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3. Windowsの流れに飲み込まれて

1990年に、日本アイ・ビー・エムは「IBM DOS J4.0/V」をリリースします。当時、パソコン用の標準的なOSとして圧倒的なシェアを持っていたMS-DOSのIBM版ですが、PC/AT互換機とソフトウェアだけで日本語を扱えるようにすることができました。この製品の登場で、PC-9801 vs. DOS/V機という図式が現実的な解としてできあがり、寡占状態だったPC-9800シリーズにかげりが見えるまでになっていくのです。

世界標準だったPC/AT互換機は、1992年にコンパック日本法人が仕掛けた価格破壊の流れ「コンパックショック」を機に日本に浸透していきます。現在はHPに吸収されたコンパックが、当時、標準的な98シリーズの半額近い価格設定で日本に参入したのです。それまでも秋葉原では自作パソコンのメッカとしてさまざまなパーツが販売され、安くて高性能なDOS/Vパソコンは一種のブームを形成していました。

そして、パソコン用OSは、MS-DOSの時代からWindowsの時代に移ります。

1995年に発売されたWindows 95は、夢のような世界を人々にもたらすと話題になりました。販売店には、パソコンを持っていない人までがそのCDをほしいと詰めかけて店員を困らせたそうです。どうやら、音楽プレーヤーにそのCDをかければ幸せになれると信じているお客さんが後を絶たなかったようなのです。午前零時に開始される量販店頭での深夜販売が定着するようになったのもこの頃からです。

DOS/VとWindowsによって、アプリケーションソフトウェアの互換性という点では、ほとんど本体の設計を気にしなくてもよくなりました。NECは1992年の時点でPC-9821シリーズをリリースし、DOS/Vに対するハードウェアの優位性をアピールしていましたが、苦戦の時代が始まります。そして、1997年、15年間続いたPC-9800シリーズはPC/AT互換機としてのPC98-NXシリーズとして生まれ変わります。皮肉なことではありますが、当時、マイクロソフトやインテルがハードウェアデザインのガイドラインとして提唱していたPC97/98に最も準拠したシステムとしてのデビューでした。

(写真5)Windows時代の「98」、PC98-NXシリーズ

Windows 95登場のころから、世の中は、インターネットを暮らしや仕事を支えるインフラと見なすようになります。当然、パソコンも、一般電話回線につないで、音声とデジタル信号を相互変換しながらデータ通信をしていた時代から、ADSL、光ファイバーによる高速通信の時代に入っていきます。

1999年にはドコモがiモードサービスを開始、2001年にはFOMAによる3Gによってモバイルネットワークの高速通信の時代がやってきます。2000年にはカメラ付き携帯電話としてのシャープ「J-SH04」が発売され、15年以上たった今なお「写メ」を携帯電話で写真を撮って誰かに送ることの代名詞として定着させています。

パソコンで扱える情報の種類も、量も、質も、かつてとは比べものになりません。高山氏は98の全盛期、企業で情報処理部門を相手にしたビジネスを営業や管理部門に売り先を変えるという施策に打って出ました。そのことで、技術者ではなく一般の人がパソコンを使うようになったのです。そのためのキラーソフトがワープロソフトであり、一太郎だったのです。今、あなたのパソコンやスマートフォンで、最も頻繁に長い時間使うアプリは何でしょう。それはもしかしたら日本語入力そのものかもしれませんね。

(写真6)NEC元役員、高山 由さんが、パソコンを技術者のものから一般の人も使うように世の中を変えた *内容は取材当時のもの

NECブランドはその後、中国・レノボ傘下のNECパーソナルコンピュータ社として優れた製品をリリースし続けています。レノボはThinkPadを生んだIBMのパソコン部門を買収したことでも知られています。結果的に98シリーズの繁栄を打ち止めにした元IBMの一部門が、同じグループで切磋琢磨しつつ製品をリリースし続けています。この「昨日の敵は今日の友」ともいうべき経緯は、IT歴史物語の重要トピックとして語り継がれていくことでしょう。

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